かたちなき「伝統」。朝日焼の継承にまつわる(ごく一部の)物語 [1]

宇治の地で約400年続く茶陶、朝日焼。
昨年11月にこの世を去った十五世窯元、松林豊斎さんは、次代を継ぐ人々になにを伝えたかったのだろうか。

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かたちなき「伝統」。朝日焼の継承にまつわる(ごく一部の)物語 [1]

2015年の春、筆者は宇治の茶陶・朝日焼の窯焚きを取材する機会を得た。
朝日焼の茶碗は、窯変による不思議な魅力を持っている。その作風を生む窯焚きの取材は念願だった。
それに、意欲的に作品を発表し続ける十五世窯元、松林豊斎さんという人物にも興味があった。

朝日焼の窯焚きは3日間にわたって登り窯の炎を燃やし続ける。さすがに3日3晩ずっとはり付くわけにはいかなかったが、期間中は深夜に早朝にと窯のそばで番をする豊斎さんとその息子、佑典さんに話を聞き、写真を撮った。
この取材が終われば、豊斎さんの日常の作陶を取材しよう。私は窯焚きの最中にそう考えていた。400年間続く窯元の仕事、その全体像がどのようなものか自分なりにまとめてみたいと思った。

窯焚きが終わると、3日間のつけをはらうように怒濤の日常が待っていてそれはしばらく続いた。ひと段落して、そろそろ次の取材の相談も兼ねて連絡しなくては、と考えているうちに訃報が届いた。

《2015年11月24日。朝日焼窯元十五世、松林豊斎(まつばやしほうさい[本名:良周=よしかね])さんがこの世を去った。享年65歳。がんの発覚から約2年間、闘病生活のなか精力的に作陶を続けていた最中のことだった。》

取材はときに、相手の心のうちにずかずか入り込んでしまって自分でも嫌になることがある。だから、そうした無遠慮さを受け入れてくれた相手のやさしさは忘れない。
それがほんのわずかな時間であっても、取材で付き合ったひとの死はとてもつらい。

豊斎さんが亡くなってから、私は3日間の窯焚きで得た多くの写真と取材テープにどう向き合っていいのかわからなくなった。良く撮れた写真をいくつかご遺族に渡して、あとはいつかのための記録だと自分に言い聞かせてしまい込んでいた。

今回、この窯焚きのことを記事にしようと思ったのは、佑典さんが十六世を継いだというニュースを目にしたからだ。それも父と同じ「豊斎」の名を継いだのだという。

深夜の窯のそばで豊斎さんが語った内容は、朝日焼の世代継承を知る手がかりになるんじゃないか。そこまでは望めないにしても、親と子の、ひとつの家族の物語の、ほんの一部だけでも残すことにはなるんじゃないか。
そうした思いで、はじめて朝日焼について書くことにした。

朝日焼窯元、十五世豊斎氏の安らかなるご冥福を心よりお祈りいたします。

豊斎さん、いつかまた、と約束していたろくろの取材にうかがえなかったことが悔やまれてなりません。

米原有二

 

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朝日焼
慶長年間(1596-1615)に開窯。
茶の里であり、古くから優れた陶土が採れる宇治の地で約400年間にわたって茶陶をつくり続ける。初代が茶人、小堀遠州の指導を受け「朝日」の名を与えられたことから遠州七窯のひとつに数えられる。

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窯焚きがはじまる

2015年5月23日、20時32分。
朝日焼窯元十五世、松林豊斎さんが神棚の灯明から窯口に火を移すと、薪がパチパチと音を立て始め、登り窯「玄窯(げんよう)」に半年ぶりの火が入った。
松林家と職人一同が神棚に手を合わせて今回の窯焚きの無事を祈る。
豊斎さんの「よし」の声で全員が手を下ろすと、皆に不安と安堵が入り混じった表情がみえた。
宇治の地に朝日焼が窯を開いてから約400年。幾度となく繰り返してきた光景だ。
これから約3日間におよぶ窯焚きがはじまる。
朝日焼が登り窯を使って窯焚きをおこなうのは、年に2度か3度。松割木を燃料に焼成する登り窯はその不規則な炎の流れが窯変を生み、ときに作者の想像を遙かに超える表情をつくり出す。約半年間をかけて土や釉薬と格闘した成果はすべて窯焚きの結果次第なのだ。

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自分に言い訳できない仕事

前日まで続いた作品制作と「窯詰め」で、豊斎さんは憔悴しきっていた。
「いつも、窯焚きが始まってしまえば気持ちが少し楽になりますね。直前までろくろの前でああでもない、こうでもないと昼も夜もないような生活をしてギリギリまで追い込んでますから。窯に詰めるときも場所を変えては悩んでの繰り返し。家内には『もう歳なんやしそこそこにしときなさいよ』ってやかましく言われるんやけど、こればっかりは今さら変えられへんよね。なんかね、自分に言い訳できひんぐらい懸命に作ったものじゃないと窯に入れたらあかんような気がして」

「窯を焚いてて、そこで倒れたとしたら『焼きもん屋』としては本望ちゃうかな。まぁ、なかなかそんなふうにはならんのやけど」と、豊斎さんはふふっと笑った。

豊斎さんは2013年にがんの診断を受けた。入院と抗がん剤による治療で一度は快方に向かうものの、翌2014年に再発。このとき、抗がん剤と放射線を併用した治療が再開して約半年が過ぎていた。

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50回目の窯焚き

この窯焚きは、豊斎さんにとって1995年(平成7)の十五世襲名以来、ちょうど50回目となる。26歳で父に師事して以来、数えきれないほどのことを窯焚きの場で学んだという。
「教え、と言うても父はなんにも話しませんでしたけどね。体力と気力の限界まで土をいじって、寝不足でふらふらしながら窯に松割木を放り込む姿を見てただけです。そのときはなんとも思わへんのやけど、その様子は今でもよう覚えてるんです。仕事をしてて困ったら『こんなとき、父はああしてたな』と、ちょくちょく助けられる。今は(長男の)佑典がそうして私のことを見てるんと違いますか」

先々代が築いた登り窯、「玄窯」

豊斎さんの父、十四世豊斎氏が築いた「玄窯」は、穴窯と登り窯が融合した独特の構造をしている。研究熱心だった十四世は生涯で5つの窯を築いた。国内でも最初期に実用化したLPガス窯や、無煙の登り窯などをつくり、試行錯誤の集大成として54歳のときに手がけたのがこの玄窯だ。

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玄窯は奥にゆくほど高く傾斜しており、内部は4つの焼成室に区切られている。手前から「胴木(どうぎ)」、「穴窯」、「登り1」、「登り2」と名付けられた各室に詰められた作品は1,000点を超える。作品を詰める場所で温度や炎の流れ方はまったく異なる。また作品の素材(土物・石物)や釉薬によっても最適な場所は違い、茶碗もあれば壺もある。窯に火を入れる前の「窯詰め」は、さながらパズルのピースをひとつずつ埋めていくような作業なのだ。

窯変の魅力

十四世豊斎氏が築窯に人生をかけたのは、朝日焼の最大の魅力が窯変にあるからだ。朝日焼の「御本手」には、鹿の背を思わせる黄色がかった斑点模様が特徴的な「鹿背(かせ)」と、淡いピンクの斑点があらわれる「燔師(はんし)」の2種類がある。えもいわれぬ魅力を持つこの窯変は、登り窯のなかで酸化と還元を不規則に繰り返すことでしか生まれない、いわば偶然の美だ。しかし、朝日焼の歴代は、先祖の作を手本にその工程を想像し、土と炎がつくる窯変を意図的につくり出そうとしてきたのだ。玄窯は、そうした試行錯誤の結晶といえる。

「窯変のメカニズムは、ある程度分かる部分と、まったく分からない部分があってね。でも、わかったような気になっていることも次の窯焚きでは同じようにいかない。『あれは幻想やったか』とがっかりしてね。まぁ、土と火が相手やから曖昧なもんです。毎回、窯焚きの経過は詳細に書き残すんですよ。薪の投入時間と本数、温度、湿度、窯内の酸素濃度など、わかることはすべて克明に記録します。でも、それが過去何十年分あっても失敗するもんです。一回の窯焚きで『良ぅできたなあ』と思えるのはいつも2割くらい。ある程度の努力の先は、人智が及ばない部分のような気がしますね」(豊斎さん)

「窯に神棚を祀って注連縄してますでしょ。あれは儀式的なもんじゃなくて、本当に神様に託すような思いですよ」。そう話す豊斎さんの視線の先に、松割木を抱えて窯に向かう佑典さんの姿があった。

(つづく)

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TEXT BY YUJI YONEHARA

PHOTOGRAPHS BY YUJI YONEHARA

16.11.08 TUE 18:25

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