1936年に創業した、丹後ちりめんの製織、販売業を営む家の次男として生まれる。30歳で丹後に戻り、32歳でクスカ株式会社代表取締役に就任。手織りに特化したブ ランド「KUSKA」を立ち上げる。両親、妻、2人の子どもと暮らす。
https://www.kuska.jp/
―高校球児だったそうですね。
楠:中学から実家を出て、中高と高知県の明徳義塾で寮生活でした。ちょっと知られた強豪校ですけど、私が高校1年のときに、あの松井秀喜を敬遠した試合がありま した。
―高校時代から注目選手だった松井秀樹を5打席連続敬遠して、大きな話題になったあのときの明徳義塾ですか(1992年夏の甲子園 明徳義塾 対 星陵高校)。
楠:そうなんです。あの試合もアルプススタンドで応援していて、球場中の大ブーイングを経験してました。あれで明徳は運気が悪くなって、その後、3年間は暗黒時代。苦情の電話とかもすごかったですし。3年後からは甲子園に連続出場してるんですけど、ちょうど私の高校時代は、まったく甲子園に出られませんでした。
―早くから実家を出て、中学高校は野球一筋で。実家の家業に目が向いたのはいつ頃でしょう。
楠:その後、大学は東京に出て、今度は湘南でサーフィンデビュー。建設関係の仕事についてからも、全国各地の海からハワイ、バリ、ニュージーランド…ずっとサーフィンに夢中でした。それが、27、28歳の頃にサーフィン雑誌で丹後の特集が組まれてるのを見て、丹後でもサーフィンができるんだと気づいてから、ようやく実家にも目が向きました。そこではじめて実家の家業、丹後の織物に向き合って、多くの伝統産業と同じように疲弊した状況を目にしました。
―30歳で実家に戻って、クスカを継がれたということですが、経験のない織物の世界にどうやって飛び込まれましたか。
楠:織物のことを何も知らなかったので、京都府が丹後に開いている織物振興センターで基礎を勉強しつつ、実家の工場で現場のことを学びました。それが約2年くらい だったかな。機械で大量生産して販売するという仕組みでは独自性もないし、続かないだろうと考えて、手織り機を導入することにしました。あわせて流通をシンプルにして、製糸や染めは外に出してはいますが、織りの工程や販売まで、なるべく自社で直接手がけるように変えていきました。
―そんな大胆な変革が可能なものですか。
楠:たぶん、30歳までこの業界に属していなかったことと、サーフィンのスピリッツというのかな(笑)。サーフィンを通して、さまざまなローカルの文化や風土を感じたり、自分自身を突き詰めることを経験してきたのが大きかったのかなと思います。
―手織りへの切り替えはスムーズに?
楠:最初はこの地方に手織りを得意としている方がいらっしゃったので、その方に師事してレクチャーしてもらいながら、母も巻きこんでKUSKAの基礎となる部分をつくりました。といっても、最初はいろいろ試してもなかなか商品にならなかった。手織りの美しさをいちばん引き出せるネクタイにフォーカスして、やっとマーケットへの手がかりを掴むことができました。
―手織りと機械で織ることの違いってかなりありますか。
楠:圧倒的に違いは出ます。手織りだと経糸と緯糸の間に空間ができて、それが三次元の織物になっていくのですが、機械を使う場合、どうしても高速で織っていくために平面的な織物になります。見た目や風合いの違いだけでなく、人の手を使うことで不均一な美しさも生まれますし、あと、手織りでなければできない織り方もありますから。
―工房を拝見すると、手織り機なんだけど、最新の手織り機という印象を持ちました。
楠:つくりたいものはすべて、自分たちで道具からつくってますから。単に昔ながらの手織りの仕事に戻したというのも違って、今と昔のよさをハイブリッドにして、独自のクリエーションを生んでるのがうちの強みかなと思います。
―結果的に他にはまねできないものに。
楠:そうですね。世間的には、あるものから発想して考えていくことが多いでしょうけど、私はアプローチが逆で、頭のなかにある美しさを追求して今があるという感じです。
INTERVIEW
20.01.29 WED 12:00